広重再考 |
甲州街道郡内に珍しい工法の橋がある。日本三大奇橋の”猿橋”である。断崖の渓谷に橋脚を使わずに両岸から丸太をせり出させ、その上に板を並べて橋を作っている。世界的な絵師安藤広重は、この一風変わった橋と桂川の渓谷を題材にして名作、「甲陽猿橋之図」(以下甲陽と略す)を描いた。桂川渓谷にかかるアーチ型の橋、その橋を渡る旅人、遠くの峻鋭な山、その山に沈む月、見れば見るほど引きこまれてしまう作品である。広重や北斎の作品を見ると斜め上からの絵が多いが、下から見上げるこの作品は斬新な印象を受ける。ところが、この絵をジッと見ていると、疑問が沸いてくる。 広重は実際の光景を見て描いたのだろうか? この疑問は明らかに愚問である。絵というのは心に感じたものを表現する物であるから、実際にその光景を見ていなくても何ら問題はない。しかし、橋、山、川、月 は確かに21世紀のこの世にも実際に存在しているのである。この疑問に応えるべく調査を開始した。 ”甲陽”は1841年4月に広重が甲府に旅したときに猿橋宿でおこなったスケッチを元にしているといわれている。広重が旅立ったのは4月2日。4月5日に甲府に到着している。郡内にいたのは、4月3日と4日である。「こよみのページ」でこのときの月を調べてみると、確かに満月である。ということで問題解決。 |
広重の旅程
広重の甲府への旅は次のように考えられている。
日本橋 | 横山 (八王子) |
野田尻 (中央高速談合坂) |
黒野田 (JR笹子) |
甲府 | |
新暦 | 5/22発 | 5/22着-5/23発 | 5/23着-5/24発 | 5/24着-5/25発 | 5/25着 |
旧暦 | (4/2) | (4/2-4/3) | (4/3-4/4) | (4/4-4/5) | (4/5) |
月齢 | 1.1 | 2.1 | 3.1 | 4.1 | 5.1 |
・以下、分かりやすくするため、断りのない限り日付は全て新暦とした。 ・旧暦-新暦の変換、月齢は、「こよみのページ」でおこなった。 (計算結果は 私小やじの責任で掲載) |
なんと広重が旅したときには満月ではなく、三日月ではないか! おまけにこの月は昼間でており、広重はこの旅で月にはめぐり合えなかったのではないかと考えられる。広重は、”満月だったら○○だろう」ということで描いたのかも知れないが、未知の土地の見てもいない満月がこの位置に沈むかどうかの判断はなかなか難しいのではないだろうか。
既にこの時点で広重は月を見れる状態にないのであるが、何かの間違いでやはり広重が猿橋にいたとき(ほぼ)満月だったとしよう。じつは仮にそうだとしても、広重が猿橋で残月を見るのはかなり難しいのである。有名な旅日記から推測してみる。
2:00 | → 約2時間 |
4:00 | → 約4時間 |
8:00 | ||
野田尻 | 猿橋 | 黒野田 | ||||
7:00 | 9:00 | 13:00 |
橋の下から山は見えるか
”甲陽” と同じアングルで実際に眺めてみることができないのは明白である。現在でもできない。正確に言うと許されない。”猿橋” の下流に水路が通っており、この上に立てば”甲陽”に近いアングルが取れそうであるが、立ち入り禁止になっている。この位置から撮った写真も本には載っているが、写りが悪くてさっぱりわからない。そこで、橋の下から西を見ると山が見えるかどうかシミュレートしてみた。描画させたのは次の物である。
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|||||||||||||
左:滝子山と峰の山 右:下流から見た”猿橋” 手前は水路 |
描いてみてビックリ! 見事に橋の下に滝子山が現われるではないか。もちろん手作りなので寸分の狂いもなく正確というわけには行かないが、これで十分である。実物は川の蛇行に合わせて両岸の崖があるので見えそうにないのだが、方向と上下関係などはほぼ”甲陽”通りである。広重は実際に見ることができない光景を描いたが、その結果は見事に実際に存在する可能性の高い光景ということになる。 |
ところが、”橋の下シミュレーション”をしてみたが、西を描いた時のようにうまい具合に”甲陽”の光景は現われてこない。やはり広重は西の山を描いたのだろうか。広重は、江戸から甲府へ西に向かって旅したのであるから、振り返らなければ見れない山より、正面に見える山に深く共感したとする方が自然である。広重の旅日記には、鳥沢から猿橋までの道程で、「・・・甲斐の山々遠近に連なり、山高くして谷深く・・・」と感動を書きとめている。滝子山は広重を感動させるに十分な絶景の山であることに間違いはない。
”甲陽”をよく見てみると、川の流れは奥から手前に向かっているように見える。”甲陽”
をみて川の流れを判断するのは結構難しい。しかし、別の猿橋を描いた作品から判断することができる。猿橋を描いた広重の作品に「60余州名所図絵」というのがある。この作品は山の図柄や橋の傾き(右下がり)が”甲陽”とはちょっと違っており、”甲陽”
とは逆のアングルと思われる。そしてこの作品の川の流れは渦を巻いている様子から明らかに、上流から下流を見ている。「60余州」と
の比較から、”甲陽” は下流から上流を描いたということになり、このことも西の山を描いたことを指示することになる。
橋の上からは、西も東も同じような光景が見える。しかし、橋の下からは西のみが”甲陽”と同じ光景を再現する。橋の下からの光景を実際に見ることはできないにもかかわらず、橋の下の光景の存在しない東ではなく、西を描いた広重の才能には驚くばかりである。
旅の日の天気
”甲陽”を見れば広重の旅は晴れであり、なかなかの天気に恵まれたといえそうである。広重が郡内にいたのは、5/24-25(新暦)である。初夏のよい季節を選んでいると思う。「山梨歴史カレンダー」という本に、甲府のお天気確率が出ている。これによると、両日の天気確率は次のようになっている。
晴れ | 曇り | 雨 | |
5月24日 | 51% | 16% | 33% |
5月25日 | 58% | 18% | 24% |
一応、晴れの確率が最も高いのだが、月が見れるかどうかという観点からすれば半々になってしまう。また、晴れといっても雲一つない快晴ではないだろうから、月の見れる確率は50%に満たないといわざるを得ない。いくら確率が低くてもあくまでも確率であって実際どうだったかとは別ではあるが、ここまでの検証でこの日は満月ではないことがわかっていることと合わせると、広重がこの日に月を見たであろう確率はさらに低くなってしまう。少なくとも、月を見たであろう確率を高めることはない。
描いたものは 月 か?
さてここまで、月齢、アングル、山、天気、などいくつかの状況を見てきたが、”広重は本当にこの光景を見たのか?” に応えられなかったキーワードは、「満月」だけである。月というのは、満ち欠けする。満ち欠けがなく常に丸い物といえば、太陽である。広重は太陽を描いたという可能性はないのだろうか? 作品の題名も「甲陽猿橋之図」である。よく見れば、”甲陽”の月にはウサギ模様は見て取れないので、太陽ということもあるかも知れない。太陽を描くというのは、ちょっと解せないのが、広重が月を描く時には必ずウサギ模様を描く習慣があれば、”甲陽”は太陽を描いたということになる。そこで、広重の他の作品をいくつか見てみた。
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作品名から太陽ではなく月とわかるものを拾い出してみた。新書に掲載されている白黒のものを調べただけなので、決してクリアではないがいずれにもウサギは描かれていない。これらの他に、「京都名所・淀川」や「木曾海道六拾九次・洗馬」などをA4サイズの原色版で見てみてもウサギは見当たらない。上の表で永代橋佃しまでは10齢くらいの半月を描いているが、ウサギはいない。武陽金沢八勝夜景では作品名に”甲陽”同様「陽」の字が使われているが、「夜景」なのだから描かれているのは太陽ではなく月になる。「陽」は「月」をも意味するのだろうか? 広辞苑で「陽」を見れば、
日に向かっている方。日。日の光。表面。うわべ。 易学で、天地の二元気の一。天・男・君・日・昼・動・剛・奇数など すべて積極的・能動的な事物の性質を表す。 |
と出ている。広重の所属した歌川派の元祖豊春の作品に「洛陽四条河原夕涼図」というのがあるが、ここにも20齢位の半月が描かれており、作品名に「陽」の字が使われている。
広重の他の作品の月にはウサギは描かれておらず、作品名の「陽」は太陽を意味していない。これらのことから”甲陽”はやはり素直に月を描いているとしてよさそうである。
ここまでの考察で
広重は実際の光景を見て描いたのだろうか?
に応えるのに残った疑問は、
広重は実際に満月を見たのだろうか?
である。
広重の旅をおさらい
ここで、一休みして広重の甲州の旅をその記録から簡単におさらいしてみたい。旅の楽しみの一つに食事がある。この点に注目してみた。暦はもとのままとし、意訳した。(甲斐志料集成を引用/月日はそのまま)
4月2日 うす曇のち晴れ |
八王子泊 | 徳利亀やの先隣 山上重郎左衛門宅 |
4月3日 晴天 |
小仏峠 | 一膳めし、平、きみこんぶ、あぶらげ、ふき (まずい) |
興瀬 | あゆのすし(高くてまずい) | |
梅沢 | 大まんじゅう塩あん | |
境川 | あゆの煮付、さくらめし、うどん、酒 | |
野田尻泊 | 小松屋(きたない):塩あじ半切り、汁(菜)、平(氷とうふ、いも菜)、めし | |
4月4日 晴天 |
犬目 | しからき屋(きれい) |
猿橋 | ヤマメの焼きびたし、菜びたし | |
上初狩 | だんご4本 | |
よしが窪 | 焼もち(百姓勝左衛門) | |
黒野田泊 | 若松屋(小松屋よりきたない): 皿(めざし、いわし四つ)、汁、平(わさび、牛蒡、豆腐、いも)、飯 皿(牛蒡、ささかし、しょうゆかけ)、汁、平(豆腐、赤はら、干物)、飯 |
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4月5日 晴天 |
鶴瀬番所 | 山うど、煮付、平 |
勝沼 | 常盤屋:玉子とじめし | |
石和 | 焼酎、うどん | |
甲府着 | 伊勢屋栄八宅 | |
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11月20日 | 上花咲泊 | 問屋(きれい) |
11月21日 晴れ |
犬目 | しからき屋:酒(まずい) |
上野原 | 大ちとや:昼食 | |
興瀬泊 | 稲荷屋 | |
11月22日 | ------ | 時々休んで酒 |
府中泊 | 松本屋:酒(まずい) |
広重の旅日記を読むとなかなか興味深いことを発見できる。詳しいことは省略するが、
・日本橋と甲府を何日で旅したか。 |
いずれも、”ふ〜ん” といわせる貴重な記録である。「江戸の宿」という本に旅篭のことについていろいろ詳しく出ているが、これよりもっと泥臭いことがわかる。広重は、”酒まずい”とか”宿が汚い”とか好き勝手言っている。ところがこれが旅人の本音で、次に旅をする人にとても役に立つ情報なのである。
甲府では、創作一途だったかというとそうではなさそうで、毎日のように芝居と酒に浸っていたようで、どちらかというとこの合間に頼まれ物の作品を書いていたようだ。面白いことに、絵の道具は広重が甲府に着いた後に別便で到着している。今では、ゴルフ宅急便 とか スキー宅急便 があるが、さしずめ 絵画宅急便 といったところであろうか。
記録は4月中のものしか残ってないようで、次に日記に出てくるのは、霜月ニ十日江戸への帰都のころである。新暦に直すと何と1月1日になる。帰都の二日目は、朝7:00ころ大月を出て、夕方5:00ころ相模湖で宿泊している。翌日は夕方6:00ころ府中で宿泊している。今で言う、1月1日と2日であるからさぞかし寒かったであろう。
広重の旅をおさらいしたところで、本題に戻ろう。ポイントになるのは
広重は実際に満月を見たのだろうか?
である。
(実はこのおさらいには重要な内容が含まれている。)
逆行の発進
広重は甲府に長期滞在し、あちこちと動き回って作品を残したとされている。専門書によれば、「11月13-22日まで甲府にいたがそれまでの記録がないので一度江戸に戻ったのではないか」 ともいわれているし、”おさらい”
で見てきた旅日記では、4月24日〜11月12日(旧暦)までが抜けている。この日を新暦に直すと6月13日〜12月24日となる。
いずれにしても、初夏に旅立って甲府で初冬を迎えたとなるが、衣替えも必要であろうし資金もそこをつくであろう。今の世のように、売った作品の印税が銀行口座に振り込まれ、クレジットカードで生活できるなんてことはない。
帰都は、新暦換算で1月に入っており、日記に書かれている宿に入った時刻はすっかり日の暮れた時刻である。かなり冷えていたに違いなく、防寒具は必須である。ということになると、冬になる前にやはり一度江戸に戻ったと考えても不自然ではない。
ところが一概にそうとも言えない。絵具は別便で江戸から甲府まで運ばせている位であるから、冬の衣を取りに行くだけで江戸へ一時帰都したとは考えられない。手紙を書いて送らせても良いし、弟子に取りに行かせても良い。もし、一時帰都が必要な理由があるとすれば資金面であろうが、甲府で描いた作品の代金を現金で支払ってもらえばよいので、これも考えずらい。広重は甲府にいた期間、いろいろなところにでかけ創作に励んだと書いてあるものもある。これに従えば、「甲陽猿橋之図」を描く為に猿橋を訪れた
とも考えられるが、甲府と猿橋との往復は少なくとも宿泊を必要とする。猿橋は甲府と江戸の中間に位置するのだから、それだけのために出かけるという考えを採用するのも躊躇する。
一時帰都が言われている広重であるが、このように素人の私にはその理由が見当たらない。やはり、専門化の先生方が推測するように、何らかの理由で
広重は一時帰都した
とするのがよさそうである。それでは、それはいったいいつであろうか? 答えは ”甲陽” に隠されている。
証拠の検証
”甲陽”は江戸→甲府の旅で描いたスケッチを基に描いた」と認識されているが、これを「甲府→江戸の一時帰都時に見た風景を描いた」とすることはできないだろうか。とすれば、その日は西の空に満月が存在する日ということになる。さっそく、こよみのページで、1841年に満月が西に沈む日を探してみた。(暦のページで計算された今回の結果の使用は、私”小やじ” の責任もとに掲載した。)
まずどのような条件でサーチするかであるが、次の条件で行ってみた。
月の入り方位 | 月は滝子山辺りに描かれている。この位置を月の没方位から約5度南にずれた位置とし、月の没方位を282前後とした。 |
月の没時刻 | 描かれている月の位置から月の没までを約1時間とした。あまりの早朝では、意味がないので月の没時刻を8:00前後とした。(”甲陽”の月の位置時刻、7:00) |
月齢(月の形) | ピッタリ満月なら良いが、我々が”満月”というのは決して、15齢満月ではない。そこで前後3齢(12-18)と広めにした。 |
これらの条件で5月以降を調べた結果、つぎのような日が見つかった。ピックアップは、月齢優先とした。あわせて、日の出の時刻を調べた。
日にち(新暦) | 月の没方位 (282前後) |
月の没時刻 (7:00ころ) |
月齢 (12-18) |
日の出時刻 |
10月1日 | 280 | 5:58 | 15.9 | 5:39 |
10月2日 | 287 | 7:00 | 16.9 | 5:40 |
10月3日 | 293 | 8:05 | 17.9 | 5:41 |
10月29日 | 284 | 4:47 | 14.4 | 6:04 |
10月30日 | 290 | 5:51 | 15.4 | 6:05 |
10月31日 | 296 | 6:59 | 16.4 | 6:06 |
11月1日 | 300 | 8:07 | 17.4 | 6:07 |
11月26日 | 288 | 3:33 | 12.9 | 6:31 |
11月27日 | 294 | 4:39 | 13.9 | 6:32 |
11月30日 | 303 | 8:03 | 16.9 | 6:35 |
12月1日 | 301 | 9:01 | 17.9 | 6:36 |
驚いたことに、いずれも秋ではないか。しかも広重の日記で抜け落ちている6月13日〜12月24日に相当する。広重は、1月1日に帰都したのだから、夏から秋にかけてのどこかで猿橋を訪れたと考えたいところだ。結果は、このことを指示するものとなった。
それではこれらの内、”甲陽”の条件に最も当てはまるのはどれであろうか。
まず、残月が滝子山に上にあり、周りの風景がちゃんと見える時間帯からすると、月の没時刻は日の出の時刻より1時間強以上遅れていてほしいところである。また、1月1日には甲府を旅立っているから、これからあまり近くない日としたい。候補日の中でこれらの条件に当てはまるのは、次の3日ということになる。
日にち(新暦) | 月の没方位 | 月の没時刻 | 月齢 | 日の出時刻 |
10月2日 | 287 | 7:00 | 15.9 | 5:40 |
10月3日 | 293 | 8:05 | 16.9 | 5:41 |
11月1日 | 300 | 8:07 | 16.4 | 6:07 |
月の没方位・時刻・月齢いずれも10月2日が最適の日となる。参考の為に、これらの日の天気確率を調べてみると
日にち(新暦) | 晴れ | 曇り | 雨 |
10月2日 | 40% | 26% | 33% |
10月3日 | 45% | 23% | 31% |
11月1日 | 71% | 11% | 18% |
となる。天気確率からは、11月1日がよさそうである。月の没方位・時刻・月齢で最適だった10月2日は残念ながら最下位となっている。しかしながら、9月から10月にかけては台風の季節であり、台風さえなければ晴れの確率は十分確保できるのではないだろうか。
猿橋を訪れたのではなく、1月1日の正式帰都時の絵(猿橋には1月2日)と考えてもよさそうであるが、広重の描いた他の猿橋、「貼り交ぜ絵」や「60余州名所図絵」には雪は描かれていない。また、「60余州名所図絵」は紅葉を描いたと思われるデザインである。このことからも、秋が有力候補としてあげられる。
広重の一時帰都で猿橋通過の日を、10月2日、10月3日、11月1日としたがこれらの内のどれであろうか?
旅の出立時間
広重が正式帰都したのは、1月1日(新暦換算)である。一時帰都して再び正式帰都するのであるから、この間はなるべく開けたいところである。したがって、10月2日か10月3日を採用することになる。
次に、一時帰都の「甲府→江戸」の時の風景なのかそれとも「江戸→甲府」の時の風景なのかどちらであろうか。ヒントは、旅日記にある。
旅日記では、郡内の宿泊は次のようになっている。
行程 | 宿泊地 | 猿橋までの距離 | おおよその歩行時間 |
江戸→甲府 | 野田尻 | 11.0km | 2.3時間 |
黒野田 | 14.6km | 3時間 | |
甲府→江戸 | 上花咲 | 5.8km | 1.3時間 |
(相模湖) | ****** | ****** |
猿橋に居る時刻は、10月2日は朝6:00前後、10月3日は朝7:00前後でなければならない。黒野田は冒頭で考察したように、除外して良い。野田尻と上花咲について、宿場の出発時間を ”おおよその歩行時間”から逆算すると次のようになる。日の出時刻を合わせて表にした。
宿泊地 | 出発時間 | |
10月2日 | 10月3日 | |
野田尻 | 3:40 | 4:40 |
上花咲 | 4:40 | 5:40 |
日の出時刻 | 5:40 | 5:41 |
最も確率が高いのは、1841年10月3日上花咲5:20発である。夜が明けなくても出発はできるが、1月1日の正式帰都の際に、上花咲を出発したのは朝7:00(明け六ツ)である。1月1日はほぼこの時間に夜が明ける。したがって旅立ちの時間は夜明けに近い時間帯であろう。すなわち、10月3日ということになる。
最後の結論
最初の疑問
広重は実際の光景を見て描いたのだろうか?
に対して、小やじ健気愉快では、次のように結論したい。
広重は実際の光景を見て甲陽猿橋之図を描いた 別の表現をすれば、広重は1841年10月3日朝7:00前後に 奇橋猿橋の上で西に沈む残月を見ていた |
|||
月齢15.5齢、水平線への没の時刻8:05。「こよみのページ」の計算に従って、朝猿橋に出かけた。「こよみのページ」では、この月は9月30日の没に表示されるが、9月30日の夕方出た15.5齢月が没するのは翌朝となる。2日前までの台風21号の雨もすっかり上がり、絶好のお月見日和になった。奇矯猿橋の上に立つと残念ながら、木々により山も月も見えない。国道20号の新猿橋の上に移動する。朝7:00滝子山のはるか高いところに月は位置した。高さの違いはあるが、左右の位置的には「甲陽猿橋之図」とピッタリ一致している。おそらく広重はこの月を見て名作「甲陽猿橋之図」を描いたのではないだろうか。広重と同じ月を見ていると、あまりの美しさに江戸時代にタイムスリップ、広重と一緒に見ているような気になってくる。 広重の月は次第に没していく。そして、7:40ついに大菩薩南嶺へと消えていった。1時間にも満たない時空を超えた大自然のドラマである。沈み行く月はとても大きく見える。その大きさは、「甲陽猿橋之図」にピッタリである。「甲陽猿橋之図」の月の位置と大きさから、広重は少なくとも1841年10月3日朝7:00から7:40まで猿橋にいたのではないだろうか。そして、峻鋭な山々、険しい渓谷、次第に大きくなりながら沈んでいく月。猿橋でのこの感動を描いたのが「甲陽猿橋之図」だと、同じ場所で同じ月を見てそう感じた。 |
広重は橋の下からは見ることはできなかったが、その光景は実際にありうる光景である。見ることはできないが広重の優れた自然への観察力が、欠けた部分を補っている。実際の光景は、秋の光景であり、”甲陽猿橋”とは”紅葉猿橋”との掛詞ではないだろうか。広重の「甲陽猿橋之図」を再考してみて、広重は最高の画家であったことを再認識させられる。広重は、1858年に没しているが、その100年後に私は生まれている。何かの因果で広重の「甲陽猿橋之図」に引きつけられたように感じる。 山岳シミュレーションソフトカシミールで広重が創造したであろう光景を再現してみた。 |
紅葉に色づく郡内の山々、秋の残月。2003年5月10日、猿橋で行われた観月会「橋上の月」に出かけた。夕刻、新緑の猿橋の頭上に上弦の月が現われ、一般募集から選ばれた俳句の発表、太鼓演奏、琴演奏、月と季節にまつわる話、などが行われた。どの企画もすばらしいものばかりで、思わず拍手喝さいしてしまった。しかし、どのような催しを行おうとも、線路が通り、高速が通り、ビルや商店が建ち並ぶ現代において広重と全く同じ風景をみることは容易ではない。
全く同じ光景を見ることは難しいが、類似した光景を体感できるところが甲州街道郡内にある。左右逆ではあるが、非常によく似ている。この光景を見れば、郡内の自然に共感した広重に一歩近づけるかもしれない。
参考資料
明日を考える 歴史資料集 甲州街道 |
石田郁雄編集 | 建設省甲府工事事務所 | 平成5年 |
甲州道中分間延絵図 第4巻5巻 |
(東京国立博物館所蔵) | 東京美術 | **** |
郡内甲州街道物語 | 鈴木美良 | 大月市七保町葛野1683 | 昭和62年 |
江戸の宿 | 深井甚三 | 平凡社 | 2000年 |
甲州風土記第四版 | 水野晴朗 | NHKサービスセンター甲府支店 | 昭和46年 |
葛野川物語 | 鈴木美良 | 大月市七保町葛野1683 | 平成11年 |
広重の世界◎巨匠のあゆみ | 楢崎宗重 | 清水書院 | 1990年第2版 |
山梨歴史カレンダー | 山梨日日新聞社 | 山梨日日新聞社 | 2001年 |
カセット日本の美第17巻 「浮世絵」 |
菊地貞夫 | ワコー美術出版 | 昭和58年 |
広重甲州道中記 | 安藤広重 | 甲斐志料集成3【日記・紀行編】 | 昭和7年 |
名勝 猿橋架替修理工事報告書 | 財団法人 文化財建造物保存技術協会編集 | 大月市 | 昭和59年 |